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近代化の礎を築いた杉田玄白の『解体新書』

蔦重をめぐる人物とキーワード⑯

■辞書のない外国語の翻訳に挑み革新をもたらした

 

 杉田玄白は1733(享保18)年、江戸にあった小浜藩の下屋敷で生まれた。父は小浜藩の藩医・杉田甫仙(ほせん)。母は玄白の出産時に難産で亡くなっている。

 

 幕府の奥医師・西玄哲(にしげんてつ)に師事して蘭方医学を学び、1753(宝暦3)年には藩医に就いた。大きな転機が訪れたのは1771(明和8)年3月のこと。玄白は江戸・小塚原で行なわれた刑死者の遺体解剖に立ち会い、そこでドイツの医学者クルムスによる解剖書『解剖図表(ターヘル・アナトミア)』の存在を知った。書中の図と、実際の解剖の様子が驚くほど一致していたことに、玄白は衝撃を受けたという。

 

 当時の日本では、中国から伝わった医学書を基盤とする漢方が主流だった。書物から得た知識と、目の前で繰り広げられる解剖の現実のギャップに直面した玄白は、若い頃から抱いていた蘭学への関心を再燃させ、『ターヘル・アナトミア』を日本語に翻訳しようと決意する。

 

 翻訳作業には、前野良沢(まえのりょうたく)や中川淳庵(なかがわじゅんあん)といった同志たちが加わった。当時はオランダ語の辞書も乏しく、外国語で書かれた医学用語を正確に理解する術すらなかった。彼らは解剖図とオランダ語の本文を丹念に突き合わせながら、昼夜を問わず議論を重ね、試行錯誤を繰り返した。この過程で、「神経」「軟骨」「動脈」など、今日でも用いられている数多くの医学用語が生み出された。

 

 3年の歳月を経て、1774(安永3)年、ついに『解体新書』が刊行される。全5巻(本文4巻、図版1巻)からなる同書は、日本初の本格的な西洋解剖学の翻訳書であり、国内の医学界に大きな衝撃を与えた。図版の作成は秋田藩の藩士・小田野直武(おだのなおたけ)が担当し、原書の精緻な図が見事に再現された。曖昧な知識や誤訳の多かった従来の翻訳書とは一線を画し、西洋水準の医学的知識が日本に本格的に導入された瞬間だった。

 

『解体新書』の意義は、医学の進歩にとどまらない。新たに生まれた漢字の医学用語は、その後、政治や経済といった他分野においても、西洋の概念を翻訳・表現する手法として応用されていく。また、目で見て確かめるという「実証的」な学問の姿勢を日本にもたらし、近代科学の基盤となる思考法を広める契機にもなった。

 

 玄白は『解体新書』の刊行後、「天真楼」を開き後進の育成に力を注いでいる。そこからは、大槻玄沢(おおつきげんたく)をはじめとする優れた蘭学者たちが育ち、蘭学は医学にとどまらず、日本の知の世界を大きく切り拓いた。晩年に著した『蘭学事始』では、自らの経験や蘭学の重要性を語り、多くの読者に新たな視野をもたらした。

 

 困難を乗り越え、玄白が西洋の知に挑んだその姿勢は、現代人にも多くの示唆を与えてくれている。

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力に『地球の歩き方「戦国」』(地球の歩き方/2025)、『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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